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ピオパークを知る

PiOPARKの住所、羽田空港1丁目1番は大田区の町名です!

羽田空港の住所表示は1丁目から3丁目まであることはご存じですか?

現在は東京国際空港(通称:羽田空港)や関連施設が大部分を占めますが、かつては穴守稲荷神社や羽田穴守海水浴場、羽田競馬場などがあり、一大観光地だったのです。

羽田空港の住所の歴史をざっくりと振り返ってみましょう。

 
 羽田イノベーションシティ(大田区羽田空港一丁目1番4号)

まず「羽田」という地名について調べてみると、鳥の羽のような翼を持つ飛行機が離発着する飛行場の名前として、あまりにもぴったりしすぎている「羽田」という地名は、羽田空港が開港してからついたような錯覚にも陥りかねない地名です。<私も子供のころはそう思っていました・・>

しかし実際の地名の由来には諸説あって、「元々この土地が、海老取川に分離され、その島の形があたかも鳥の両翼に似ている」との説や、「低湿粘土の土地(埴田<はにだ>)」、新しく開墾した土地を「墾田(はりた)」と呼び、それが転訛して「はねだ」となり、さらに、ここは昔から海鳥が多く、鳥の羽が田地にたくさん落ちていたことから「羽田」になったとの説があります。
いずれにせよ「羽田」という地名の由来に定説はないようですが、羽田空港の位置している土地が、航空機と同じように空を飛ぶ海鳥に由来していると考えると面白いです。

今の羽田空港1丁目・2丁目付近は、江戸時代には「羽田浦」などと呼ばれており、葦が一面に発生した干潟のようでした。
当時の羽田一帯は、漁村として栄えており、東に江戸湾を隔てて房総の山々を望め、西には富士山を仰ぎ、南は多摩川に接し、北には品川超しに江戸市中を目にすることができる風光明媚な土地でした。

そして鈴木弥五右衛門という人物がこの干潟に堤防を作って開墾を始めました。
この開墾地は「鈴木新田」と名づけられて、羽田村・羽田猟師町・鈴木新田を合わせて羽田三カ村といわれるようになりました。

大正時代に入ると京浜間の工業化が始まり、東京湾岸の埋め立てが進んでいく中でこの地域も行楽地以外の要素が生まれてくるようになりました。
その最たるものが、こんにちの羽田を象徴する航空好適地としての存在です。
きっかけの一つとなったのが「日本飛行機学校」の設立です。
多摩川が海にそそぐ海岸の浅瀬の砂浜は、干潮時には一面の干潟になり、平坦で飛行機の滑走には好適であり、今日の羽田空港の礎となりました。

1932年には鈴木新田は、旧三町:羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町に改称・分割されました。
しかし、戦後連合国軍の接収により旧三町に暮らしていた3千人あまりの人々が48時間という短い時間の中で強制退去を余儀なくさせられ「ハネダ・エアベース」になりました。

1952年、連合国軍から大部分を返還され、「東京国際空港」に改称。

1967年に住居表示が実施され上記の地名は、現行の地名である羽田空港一丁目・二丁目となりました。

1993年には羽田空港三丁目が設置となっています。

実際に羽田空港1丁目・2丁目・3丁目はどのあたりでしょうか?
もちろんPiOPARKがあるHANEDAイノベーションシティは羽田空港一丁目です。(鈴木新田あたり)
羽田空港第1・2ターミナルなど空港や関連施設の大部分が羽田空港3丁目であり、それ以外が羽田空港二丁目のようです。

PiOPARKでは、「登記・住所サービス」を提供しています。
羽田空港一丁目1番を法人登記上の拠点としてご利用いただけるサービスです。
ご利用いただいた場合、メールボックスのご利用も可能であり、かなりインパクトがあるものと思います!

PiOPARKは海外主要都市と各国内空港の結節点である羽田空港の地の利を生かし、本施設の利用を促進します。
国内外の様々な産業分野のトップランナーや振興企業と区内企業との支援をします。

ぜひともPiOPARKに足を運んでいただき、利便性や雰囲気など体験してください。

そして大田区から世界へ羽ばたいてください!

 
 羽田イノベーションシティ交通広場にあるモニュメント

<参考サイト> 
衣本啓介, 2010, 短報「羽田空港の歴史」, J-STAGE(2024年7月取得,
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjca/48/4/48_4_4_7/_pdf/-char/ja)

大田区, 2024, 「羽田の歴史」, 大田区ホームページ(2024年7月取得,
https://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/sumaimachinami/haneda_airport/rekishi/index.html)